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題名:存在の耐えられる軽さ -そのⅡ: フィリップ・カウフマンに属して-
報告者:ナンカイン

 本報告書は、基本的にNo.838の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 1988年にアメリカから一本の映画が封切られた。それが、映画「存在の耐えられない軽さ」である。監督はフィリップ・カウフマン、主演はダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュであり、特に、ジュリエット・ビノシュは、その当時のフランスを代表する女優でもあり、レオス・カラックス監督の「汚れた血」や「ポンヌフの恋人」などフランスの有名な作品に出演していることから、知っている方も多いであろう。その風貌はまさに、フランスの女優、という感じそのままでもあり、その存在感には先の報告書で示したように、やはりオーラ的な存在が漂っている(当時付き合っていたカラックス監督の影響下もあるのかもしれない)。
 映画「存在の耐えられない軽さ」は1968年のプラハにおける国内外に民主化の風、いわゆるチェコスロバキアの変革運動”プラハの春”が吹き荒れる中での一人の男と二人の女の物語である。その物語のベースとなる小説があり、チェコスロバキア生まれの作家ミラン・クンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」に基づく。映画に関して、あらすじを簡単にいえば、優秀な脳外科医でプレーボーイのトマシュが情熱的で一途なテレーザと同棲するも、自由奔放な画家のサビーナに魅かれ、行きずりの女性とも関係を持つことをやめなかったことから、「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない。」という手紙を残して、テレーザはトマシュから去る。その後、トマシュは失ったものの大きさに気づいたが、交通事故でトマシュとテレーザの人生が終焉する。そして、後には、サビーナが残った、である1)。プラハの動乱の背景や主人公の心情等も記述していない安易なあらすじであるために、作品への誤解を招かないためにも、この報告書の読者の方には、映画を観るか、小説を一読することをお勧めしたいが、映画すら171分もある。人によっては「視聴に耐えられない眠け」が襲うかもしれない。ただし、フィリップ・カウフマン監督は、アメリカ監督であるが、安易な作品を好まない傾向があるようで、監督のその他の作品や、監督の人柄からもそれが推測できる(図)。映画「存在の耐えられない軽さ」の封切り当時も、ヨーロッパの雰囲気がする映画、との意見も多かった。

図 フィリップ・カウフマン監督2)を一部改図

 このように「存在の耐えられない軽さ」という題名そのものから、実は魅力があり、フィリップ・K・ディックの小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」といい勝負である。そのため、題名からのバリエーションも考案しやすい。小説を執筆したミラン・クンデラも、きっと「存在の耐えられない軽さ」という題名に何かが閃いて小説を執筆したのかもしれない。
 そのⅠと本報告書のそのⅡに渡って、あまり内容がないことに、ここで気づいた。筆者も、最初のコンセプトでは、このようにそのⅠとそのⅡと執筆するつもりではなかった。ただし、ここまで読み進めた方がいるならば、まさに「存在の耐えられる軽さ」、いわば軽妙な報告書として位置づけていただければ幸いである。

1) https://ja.wikipedia.org/wiki/存在の耐えられない軽さ_(映画) (映画2018.6.25)
2) https://www.festival-cannes.com/en/69-editions/retrospective/2012/actualites/articles/a-masterclass-with-philip-kaufman (映画2018.6.25)

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