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題名:純愛たる不倫の結末から、人類事始めを探る
報告者:ダレナン

 本報告書は、基本的にNo.837の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

 先の報告書にて不倫は結果として、報告書のNo.836でも示した人と人との間での愛憎によって規定され(縛られ)る、その流れから探ると、不倫は、”憎”への外方への道を示し、人類学的には破滅(愛憎の縛りがもつれる)への文化に至る道を案内していたことが示唆された。それは、人間的シンビオス(共生)の欲望が、違うベクトルの方向を示した結果でもある。このことから、男女の結びつきの生物学的な事実(報告書のNo.848も参照)から、不倫は大いに反することとなる。一方、文化の根底には、人類が人として他の動物とは異なる道を歩み出したきっかけの”愛”がある。それは、ここで言うまでもない事実であり、それ自体が人の文化を成している。
 愛憎というベクトルを考えると、ともに同じ土壌にのりつつも、その軸は一次元であり、一方は”愛”に向かい、一方は”憎”に向かう。一軸上の正と負の関係にも似ている。そのため、++の”愛”は、+-で容易に”憎”となり、――はまたも別方向の”愛”へと向かう。不倫に関すると、男女(場合によっては男男、女女)の2人の当事者としては++の”愛”のままがそこにあり、それに関わる3者は、2者からの外れ(ー)がもたらされ、それによって方向性が変化し、いたたまれない+-の”憎”へと至ることを指す。2人の当事者の”愛”が脆弱なものであれば(++の降り幅が小さければ)、第3者の”憎”は緩和(引き戻し)されるが、強固なものであれば、極右にある++へは入り込む余地がなくなり、+-の”憎”は明らかに巨大化(極左)する。

図 マンモスの比較図2)

 かつての地球上にはマンモスと呼ばれるゾウの仲間(ゾウ目=長鼻目)がいたが1)、そのマンモスの如き、”憎”も巨大化し、怒りという、理性では押さえつけられない”心のマンモス”が+-の極左で暴れ出すこととなる。図をみても分かるように、その大きさの差は歴然である。そのため、不倫の中でも、純愛たる不倫の結末は、いつも同じである。
 例えば、ウール・グロスバード監督による映画「恋におちて」は、主役男優にロバート・デ・ニーロ、女優にメリル・ストリープという演技派2人によって演じられた純愛映画でもあるが、その純愛たる不倫の結末として、ロバート・デ・ニーロ演じるフランクも、メリル・ストリープ演じるモリーともに、それぞれが妻や夫と別居状態に至る3)。純愛たる「何の関係(肉体関係)がない方がもっとひどい」というセリフにも繋がる極左である3)。ただし、恋におちるのは、人の定めでもある。不倫ではなく(不倫であったとしても)、マンモス級の”愛”が暴れだしたら、そこは、「はじめ人間ギャートルズ」なみに、人らしい人類事始めでもあるに違いない。結末は同じでも、人の物語がある。

1) https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12113327142 (閲覧2018.7.12)
2) https://www.podcastscience.fm/wp-content/uploads/2011/01/taille_mammouth.jpg (閲覧2018.7.12)



…「恋におちて」の品への案内は、こちらになります。


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