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題名:永遠の1/1 –さかさまなエクスタシーの鏡をあなたに-
報告者:ダレナン

 本報告書は、基本的にNo.1157の続きであることを、ここで前もってことわりたい。

ここまで来て、無駄骨でもあったかのように記述することに価値がないかのようでもある。しかしながら、価値がないと判断するのは、それこそが無駄でもある。価値がある、ないに関わらず、訳が分からない、理解できない、に関わらず、こうして記述する、できることに、もはや意義を見出す。でも、実は大きな事(大事)を忘れているのかもしれない。それは、まともな文章を書くということである。ただし、永遠に迷宮入りしかけ、すでに歪んでしまった頭の中は、夢野久作の「ドグラ・マグラ」にも導かれ、奇書ならぬ、奇報告書として、相変わらず、ここに示される。ふと窓を見ると、建物もゆがんで見える(文献1)を参照)。その一方で、歪んでもいいのだ、という神の声も聞こえる。枠にはまるだけが大事なのではない。時に枠を外し、テキトーに記述することもまた大きな事の一興として位置づけられるのだ。その向こうには、きっと新しい自分の姿が映っているかもしれない。そして、その姿を映す鏡は割れていても、まとも・まとも?な、さかさまなエクスタシーをもった、あなたの真の姿を移し出すはずだ。瞳ちゃんも、そう伝えている(図)。
 こころは常にこころを反映する。それは鏡と同じである。表はまともでも、裏はまとも?だったりする。
 再度、文献2)から。自分を捨てることなど普通はできるものではない。取るに足らないちっぽけな自分でも、それでも自分にしがみついて生きている。ただし、こころが不健康になったとき、傷ついたときの方がよほど自分を捨てられる。そうして、自分を脱して、「外に立つ(エクスタシー)」。魂がエッセンティア(エッセンス)つまり本質なるものの外に立つとき、それは実在(エクシステンティア(イグジスタンス))となる。そこでの永遠は、1/1となり、きっと割れた鏡は永遠に消失する。そこで、自己は合一する。

図 瞳ちゃん1)

 ユダヤ教研究者のダニエル・マット氏は、「見えるもの、考えて理解できるものはすべて境界を持っている。境界を持つものは有限であり、有限なものは未分化ではあり得ない。無限(神)は、絶対的に未分化であり、永遠に完全な、一なるものである」と述べている3)。そのため、この奇報告書では境界をなくすのだ。さらに、考えて理解してはいけないのだ。ごくごく、テキトーに無駄に記述することで、この奇報告書は永遠として、瞳ちゃんにもこう誓える。
「そろそろ、まともな文章書いたら、どうどう?」と。どうどう巡りの頭の中と纏わるエクスタシー。

1) https://www.pexels.com/ja-jp/photo/1993367/ (閲覧2019.4.22)
2) 菊地章太: エクスタシーの神学. 筑摩書房. 2019.
3) ニューバーグ, A, ダギリ, E, ローズ, V: 脳はいかにして<神>を見るか. PHP研究所. 2003.



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